第24回岡本太郎現代芸術賞展に行ってきました

第24回岡本太郎現代芸術賞展を見に、生田緑地にある川崎市岡本太郎美術館に行ってきました。新規感染者数は減少気味とはいえ、依然として緊急事態宣言継続中。美術館の入り口では検温、入場者はマスク着用でした。この一年のコロナ下、表現者たちは何を考え、何をしてきたのだろう?

岡本太郎美術館、生田緑地と母の塔

会場に入ると、キャンバスを背負った人が、何人かうろうろと歩いていました。これもまた「鑑賞者」というタイトルの作品の一部なのだそうです。新型コロナウィルスがまん延する中、お客さんになかなか絵を見に来てもらえない、だったら、絵の方から出向いて行ってお客さんに見てもらえばよい、という趣旨でしょうか? そういえば、明治か大正か、まだ日本に初めて画廊ができたばかりのころ、画商さん達は絵を背負って、お得意さんを一件一件回ったもんだ、という話を思い出しました。

「鑑賞者」加藤立さん、パフォーマーはゴッホのひまわりを背負ったひまわりさん

もちろん、このゴッホの「ひまわり」は複製品。本物は、戦前日本の芦屋にあったのだそうですが、戦災で焼けてしまったとのこと。さぞ残念だったでしょうね。ちなみに、この作品を背負った方は、作家ご本人ではなくてパフォーマーさん。なんと、このパフォーマーさんのご本名は、ひまわりさん、なのだそうです。私も絵を背負わせていただいて、記念写真を撮っていただきました。良い記念になりました。

「机上の誉-きじょうのほまれ-」藤田朋一さん

次に目についたのは、下から光をあてられた、半透明のプラスチック製の立体作品。パンフレットを読むと、旧日本軍が開発していた戦闘機用のエンジンがモチーフ、とのことです。良くできていますが、周囲につけられた赤いものは、神社の社や鳥居。エンジンのような工業製品であっても、有用性だけではなく、ものづくりに込められた精神性こそが大事。コロナ下の芸術家は、戦時中の技術者に共鳴するところを見出したようです。

「break on thorough」モリソン小林さん

美術館やギャラリーでは、絵画は普通、額に納められていて、それぞれが独立な作品として、別々のタイトルがつけられ、個々に展示されています。とはいえ、鑑賞する者としては、それぞれの独立しているはずの作品の間の相互の関係性について、勝手に想像を膨らませてみたりします。作者にとっては迷惑かもしれませんが、それが絵画鑑賞の楽しみの一つ。ところが、この作品は、額から植物の根っこが飛び出ていて、しかも、隣の作品とつながっているのです。作品と作品は、どこかでつながっていて当たり前。これはヤラレタ。

「Distance」黒木重雄さん

この一年間というもの、外出するのも控えめ、家にいる時間が長くなってしまいました。生活スタイルも大きく変わって、自然と触れ合う機会も大幅に減ってしまった。冷蔵庫や洗濯機の廃品の山に囲まれて、楽しそうに入浴する男女の姿に、「本当に楽しいのかなあ? 自分の一年もこんな感じだったのかなあ?」と、何故だか身につまされてしまいました。

ムンクのマドンナ

一通り入選作品を見回って、投票も済ませて、会場を出たところ、カフェテリアTAROの屋外テーブルで、ムンクのマドンナさんが和服姿で休憩中、お茶を召し上がっておりました。本当にお疲れ様です。

沖元かおる個展「表と裏」(作為の無作為)に行ってきました

あいにくの雨の中、京橋のギャラリー檜で開催中の、沖元かおる個展「表と裏」(作為の無作為)に行ってきました。お天気のせいなのか、あるいは新型コロナウィルス第三波の襲来により、外出を控えている人が多いためなのか、いつもと比べると、街の人通りが極端に少ないように感じられました。沖元さんの個展は、6月に、根津のギャラリー美の舎に伺ってから、今年2回目です。

ギャラリー檜の入り口。路面が雨で濡れています。

エレベータで4階へ、会場に入ると、最初に、色鮮やかで心地よさげな水彩の4作品が目に入ってきました。即興的でスピード感のある作品は、水彩画の技法の特徴が良く活かされているようです。ちなみにこれらの作品は、お台場の風景を描いたものなのだそうです。

Twilight and Dawn(上), Tokyo Day Light(下)

この作品の横には、展覧会のコンセプトが書かれていました。

「表と裏」(作為の不作為)は、フレームのガラス板の裏からただ線を引く事から始まっている。
表を表層意識(理性)、裏を潜在意識に見立て、画面を構成している今回の作品は、平面の中身を表面から探る実験であり、この構成の効果が絵画としてどのように「見える」のか試してみた展示である。

さてさて、一体、何のことでしょうか?

Fall Rainbow

沖元さんのお話によると、この作品が一連の「始まり」の作品なのだそうです。右半分は、フレーム表面の透明板の裏側から、アクリル絵の具でただ縦に線を引いてみただけ、フレームの中身は白い発泡スチロールの板のまま。一方、左側の半分は、以前に描いた油絵があったので、その上にただ黒い油絵具を塗ってみた、とのこと。これでも、作品になるんだ、というのが、沖元さんの発見だったのだそうです。

右側の世界と左側の世界は、ずいぶんと異なっています。片方は色とりどりの明るい世界、もう片方は黒一色の暗い世界。それを左右に組み合わせて、一つの作品として構成してみたら、作品として成立していた、というのです。

沖元さんは、これまでにも、いろいろな素材を使って作品を制作してきました。以前は、琉球ガラスのカレットを使った作品を拝見したことがあります。色鮮やかでキラキラしたガラスの破片です。一方、セメントをキャンバスに塗って、作品を構成されたこともあります。セメントはざらざらとして灰色一色です。素材としては、ずいぶん対照的。

技法としてずいぶんと幅が広いなあ、もしかすると、いろいろな素材を取り込むことに挑戦しているのかなあ、などと、その時はその程度のことと解釈していました。

WetなFlower

こちらの作品も似たような構成とはいえ、印象はずいぶん異なっています。色数は少なめで、右側半分は白い花が檻の中に閉じ込められているようにも見えてしまいます。私はふと、先日逮捕されてしまった香港の若者たちのことを思い出してしまいました。彼らは、今ごろ、どうしているのでしょうか?

とはいえ、よく見ると白い花は、檻からはみ出ようとしているところのようです。左側半分も、真っ黒な画面とはいえ、表面に、かすかに何がしかの表情がある。何よりも、その黒い絵の具の下には、かつて間違いなく、別の絵があったはずなのです。

表と裏。表層意識と潜在意識。過去と未来。色とりどりな世界と、白黒の世界。知性と感性。昼と夜。善と悪。男と女。知らず知らず、いつの間にか、勝手に分類して、勝手に名前を付け、勝手に納得してしまって、それ以上は良く見ないし、それ以上は深く考えようともしない。ともすれば、私たちには、そんな傾向があるようです。

「人間はそんなに単純に割り切れるものではありませんよ。両方あって当たり前。少なくとも私はそうです。」という声が、どこからともなく聞こえてきたような気がしました。

ヨコハマトリエンナーレ2020に行ってきました

ヨコハマトリエンナーレ2020を見に、横浜美術館に行ってきました。みなとみらい線のみなとみらい駅からエスカレータに乗って外に出ると、横浜美術館の建物が何か布のようなものに覆われていました。トリエンナーレは本当にやっているのだろうか?どこが入口なのだろうか?ひょっとして、これも展示の一部?

横浜美術館の正面。入口はどこ?

近くまで行ってみると、案内板があって、その横が入口になっていました。入口では一人一人、体温が測定されます。新型コロナウィルス対策です。36.1℃、無事に入館できました。ほっとしました。

入口横の案内版

会場の中に入ると、キラキラ反射しながら回転するオブジェクトが、無数に天井からぶら下げられていました。鏡に反射しているものもあるので、余計にたくさんあるように見えます。かすかな光でくるくると回転しています。ちなみに、一部の作品を除いて、写真撮影可とのこと。

「回転する森」ニック・ケイブ

二階の展示室を歩いていると、かわいいオブジェを見つけました。レーヌカ・ラジーヴさんの「サイボーグは敏感」という作品。よくよく見てみると「COVID GOD」との文字が書いてあります。「コロナの神様」っていうこと?そういえば、手の形が、コロナウィルスの表面についているという突起に似ているような…。その近くには「Carefree Covidiot Ascending to Heaven」という作品もありました。かわいい感じの作品ですけど、なかなか痛烈ですね。コロナと一緒に暮らしていくには、ただ単に怖がるだけでなく、こんな形でイメージ化してみるのも良い方法かもしれません。

「Covid God」レーヌカ・ラジーヴ

「Carefree Covidiot Ascending to Heaven」

いろいろと手の込んだ作品を見ていると、だんだん眼や頭が疲れてきました。作家さんには悪いけど、ちょっとやりすぎ。そんな中でシンプルな作品をみると、少々、ホッとします。

「チャイム」佐藤雅晴

「階段」佐藤雅晴

近くにいらっしゃった監視員さんから、「佐藤さんの作品について、ご本人が書かれたパンフレットがありますよ」、と教えられたので手に取ってみました。それによると、これらの作品は佐藤さんがガンで余命宣告されてから、亡くなるまでの間に制作された作品なのだそうです。それにしては、ずいぶんシンプルで静かな画面構成です。

「チャイム」という作品には、友人・知人がお見舞いに来てくれるまでは、体がだるくて面倒くさいなあ、と思っていても、いざチャイムがなると、やっぱりうれしい、というコメントがついていました。「階段」という作品は、一つ一つ作品を描いていたら、いつの間にか9つめになっていた。家の階段もちょうど9段、という説明なのですが、どうしても「天国への階段」というふうにも見えてしまいます。10個目の作品「Now」は、秒針がくるくる回るだけの作品でした。たとえ残された時間に限りがあったとしても、時は流れ続けていて、決して止まることはない。という声が聞こえてきそう。

何故、人は絵を描くのか? それには、いろいろな答えがありそうです。でも、ご本人が亡くなった後、こんな風に、作品は残っていて、何らかのメッセージを伝え続けてくれています。

沖元かおる展-輝ける闇-に行ってきました。

沖元かおる展-輝ける闇-を見に、Gallery 美の舎に行ってきました。

新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、美術館もギャラリーも、長らくお休みの日々が続いてきました。5月の下旬には、一応、緊急事態宣言が解除されましたが、いまだに、その日の新たな感染者数がトップニュースとなるような日々が続いています。

6月に入ってから、ちらほら、再開するギャラリーが増えてきたようです。沖元さんから届いたDMにも、当初、5月5日から開催する予定だったようですが、実際は約一か月遅れの6月2日からの開催に変更されたとのこと。ギャラリー再開後、先陣を切っての個展のようです。千代田線の根津駅から、言問通りを歩いて2-3分ほどで、ギャラリーの入り口の案内が見えてきました。

ギャラリー美の舎の入り口

沖元さんは、このところ毎年のように個展を開いておられますが、毎回毎回、別のギャラリーで開催されています。昨年の新宿の個展会場では、たどり着くのに少々苦労しましたが、今年はとてもわかりやすく、すんなりと会場に入ることができました。

個展の案内

沖元さんの個展には、毎回テーマが設定されています。今年は戦争がテーマなのだそうです。ご本人によるステートメントは次のとおり。
「戦場の兵士は、いかに死ぬかを考え、生きることは考えない。
かつて、そして現在もそんな現実が存在する。
戦争を描く為に2年費やした。死とは生命と同じだけの質量を持つ力があり、相反し、かつ同等のものであると腑に落ちた。
展示の作品は、平面の可能性にあって、単純化した数学的な見方や技法を越える、画面のふくよかさを重んじて描画した。
社会的メッセージではなく、それに反する作品として描いた。」

少女像 油彩

毎回異なるのは個展の会場だけでなく、水彩、アクリル、油彩、場合によっては、セメントまで、画材についても何でも有りです。普通のキャンバスの上に、普通の油彩絵の具で描かれている、というごく当たり前のことに、沖元さん場合、何故だか新鮮さを感じてしまいました。一昨年の個展では、幾何学的な対称性が作品のあちらこちらに見られていたのですが、例えばこの作品では幾何学的な要素は一切排除されており、「ふくよかさ」「やわらかさ」が感じられます。画材だけではなく、描くスタイルも変幻自在。

垂れ下がる神

この作品はDMにも使われていたものなので、恐らく今回の目玉作品といっても良いのでしょう。具象画と抽象画の境界もあいまいで、そもそもそのような分類自体にも、まったく頓着されていないようです。このような作家さんも珍しいような気がします。写真ではわかりにくいのですが、画面の中央に描かれている黒いひらひらは、額の表面を覆うアクリル板のほうに描かれています(現代美術にルール違反はない?)。実物をみると、不思議なことに立体感が強調されていました。奥のほうから差し込む光から、未来への希望が感じられました。

「問題なのは、会場でもなく、画材でもなく、スタイルでもない。何を表現するのかなのです」と沖元さんはおっしゃりたいのかもしれません。新型コロナウィルス感染症にしても、戦争にしても、最後には多くの死が待っているという点では、似ているかもしれません。感染拡大を食い止めるためとはいえ、お葬式もままならないままに、ただただ穴を掘って、次々に埋葬されていく、最近見たニュース写真を思い出しました。アーティストの敏感な感性は、パンデミックの向こうに、戦争の予兆を感じたのかもしれません。願わくば、どうか、この芸術家の予感が当たりませんようにと、祈るばかりでした。

第23回岡本太郎現代芸術賞展に行ってきました。

川崎市岡本太郎美術館で開催中の第23回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)展に行ってきました。時はおりしも、新型コロナウィルスの感染者が国内外で毎日のように拡大中。行こうか、行くまいか、さんざん迷ったのですが、この時期、やっぱりこれを見逃すわけにはいきません。で、行ってみると美術館の受付の方、監視員の方、皆さんがマスクを着用されていました。厳重警戒の中でのTARO賞展です。

岡本太郎美術館前、階段下のポスター

作品を一通り見ていたところ、偶然、岡本太郎さんご本人とばったり会いました。「今年も来ましたよ。」「よく来たな」という声が聞こえたような。いやいや、よく見ると、これは立体作品です。どこかでお目にかかったような。そういえば、昨年の、神奈川県美術展でもお会いしましたね。

村上力さん、「一品洞『 美術の力』」

昨年のTARO賞でも、段ボールを素材にした作品に妙に感心したりしたのですが、今年も段ボール製の作品がありました。彩色してあるのでわかりにくいのですが、段ボールにアクリル絵の具で色をつけているそうです。最近、アマゾンで買い物をするようになってから、以前よりも段ボールが身近に感じられるようになってきました。アマゾンだから南米風なのか、あるいはポリネシア風なのか。

本濃研太さん、「僕のDNAが知っている」

素材といえば、こちらは建築現場の足場に使うような鉄パイプに、木材、それと断熱材を組み合わせて作った立体作品です。モチーフは青木繁の「海の幸」のようです。 力強い感じはするのですが、神話から題材をとったという神々しさというよりも、あるいは獲物を捕らえた高揚感というよりも、 何故だか痛々しい感じがして、確かに青木繁の絵画作品となにがしかの共通点があるかもしれません。段ボールとは一味違った素材のリアリティを感じてしまいました。

丸山喬平さん、「幸について」

暗室に入ると、中央にはミロのビーナスの表面に蛍光で光る紐が貼られている作品が置いてありました(暗かったせいか、写真はピンボケになってしまいました)。コンピュータの中で三次元の立体をモデリングするのに、ワイヤーフレームという方法があるようです。この作品では実物の三次元立体作品を作っておいて、それをわざわざ手間ひまかけて、コンピュータの中の3次元作品のように見せかけているのです。一体何のため? コンピュータの場合、マウスをクリクリするといろいろな角度から立体を見ることができます。もちろんこの作品でも、作品のまわりをぐるりと回ると、いろいろな角度で作品をみることができます。良くできていますね。当たり前といえば当たり前なのですが。たぶんコンピュータの場合、能力には限界があるために、情報量を間引いているのだと思います。ひもの裏表をねじって貼るとメビウスの輪というものができますが、これは二次元、これは三次元と分類して、安心してなどいられないようになっている。それにしても、アーティストにはアーティストなりのやり方(DNA)があるようです。

森貴之さん、「View Tracing」

こちらはとても良くできた木彫の作品です。人物はバーチャルリアリティー用のメガネをかけていて、両手にもったコントローラで、何かを操っているらしいのですが、観客にはこの人が一体何を見ているのか、何を操ろうしているのか、まったくわからない。ただ、首の角度や手や足の動きから想像するのみ。この作品でも、仮想世界と現実世界が、メビウスの輪状態になっているようです。

村田勇気さん、「任意のアトリビュート」

こちらは、テーブルの上に無数のコインが積まれている、という作品です。コインは一見すると一円玉に見えますが、大きさはちょっと大きくて500円玉程度。表面には「日本国一円」とあるべきところが「日本国一丸」と書かれていて、発行年号のところが「一九八四+三十六年」と書かれています。2020年の東京オリンピックを国民一丸となって成功させよう、という意味と、ジョージオーウェルの未来を予言したといわれる作品「1984」がかけてあるらしいのです。

高島亮三さん、「1984+36」

この作品が作られていたころ、恐らくまだ新型コロナウィルスの問題などはなかったころかと思われますが、今となってみると、いつの間にか、予定通り東京オリンピックの開催されるのかどうか、危ぶむ声もちらほら聞こえてきます。この難局を乗り越えるためには、文字通り「日本国一丸」になる必要があるようなのですが、「一丸」の意味が少々変わってきているようでもあります。この作品のように皆がピッタリくっついてしまったままでは、濃厚接触者になって感染が一気に拡大しかねません。一人一枚は持って行っても良いとのことでしたので、一枚だけ引き離して、微力ではありますが、感染リスクの低減(オリンピックの開催)に貢献させていただきました。

2020 New Year Space2*3 取り扱い作家小品展に行ってきました

KURUM’ART contemporaryの車さんから案内メールをいただき、「2020 New Year Space 2*3 取り扱い作家小品展」に行ってきました。地下鉄の三越前のA1番出口から、てくてく歩いて10分ほど、ギャラリーの前の小道に小さな看板が置いてありました。

展示会場に入ると小さな展示室の四面の壁をいっぱいに使って、所せましと小さな作品が展示されていました。小さい作品とはいえ、どれもこれも、力作ぞろいです。しかも、それぞれの作家さんの個性が、それぞれに表現されているようで、とても楽しい展示でした。

展示会場(入口の右)
展示会場(正面の右側)
展示会場(正面の左側)
展示会場(奥)
展示会場(入口の左側)

会場ではINTERART7の小林さんと、作家のナカミツキさんが在廊中でした。ナカミツキさんは京都教育大学の4年生で、在学中からすでに作家活動を始められているそうです。「バタフライコード」という展示作品について、直接いろいろなお話を伺うことができました。

ナカミツキさん、「バタフライコード」

この作品は、コンピュータで製作したものをキャンバスに印刷したものなのだそうです。ただし一つの作品は一度印刷したら、データを削除するので、同じ作品は一つしか作らない、とのことでした。ナカミツキさんはご自身で楽器の演奏もするそうで、この作品は、ライブハウスでのジャズ演奏中にその場で描いたそうです。明るい色使いと、勢いのある線から、いかにも楽しそうな演奏の様子が伝わってくるようです。

ちなみに、家に帰ってから「バタフライコード」で検索してみたら、アニメーション「デジモンアドベンチャー」のオープニング曲「Butter-Fly」で使われていたギターのコード進行のことらしいことがわかりました。曲を聞いてみると、確かに楽しいリズミカルな音楽です。

もしかしたら、ナカミツキさんご自身が、コンピューターを自由自在に操って、魔法のような作品を次から次へと生み出しつつ、きらめくアート界をご機嫌な蝶のように舞っている、デジタルモンスターのお一人なのかもしれませんね。

仁科新・幸恵展に行ってきました

代官山のGallery 子の星で「仁科新・幸恵展」を見てきました。
仁科新さんと幸恵さんはご夫婦です。この何年かは、同じギャラリーで奥様の幸恵さんの個展を拝見してきました。昨年の個展は8月で、とても暑い日でした。今回は二人展。2016年12月のコートギャラリー以来。久しぶりなので、ご主人の新さんの絵をゆっくりと拝見することにしました。

会場の入り口

奥さんの幸恵さんは、かわいい子供など、人物画や動物、お花や果物の絵が得意のようです。一方、ご主人の新さんは、山や湖、川などの風景画がお得意の様子です。展示会場に入って、左側の壁にはご主人の絵が展示されていました。

仁科新さん「夕映え」

新さんは、埼玉県の秩父出身とか。秩父と言えば周囲を山に囲まれていて、特に石灰岩で有名な武甲山のふもとにあります。夕暮れ時の山の輪郭が印象的。

仁科新さん「fog」

山の絵にもいろいろな描き方があるように思います。北アルプスや富士山を描くとなると、くっきり、はっきりとした輪郭を強調したくなるかと思いますが、新さんの山は、どちらかというと低い山。空気に湿り気を感じるような山が多いようです。空と陸との境目のあたりがうっすらと赤く色づいています。はるかな下のほうに、白く光るのは人家でしょうか?

仁科新さん、水彩画

おや、奥の小部屋にも絵が展示されていました。こちらは、水彩の小品。油絵も良いですが、こちらの明るい水彩の小品も良いですね。

仁科新さん、水彩画

絵葉書の大きさの手描きの水彩画がたくさん。クリアファイルの中の作品から、思わず一枚購入しました。横浜の山下公園の氷川丸かと思います。後日友人に見せたところ、「15000円くらいか?」と言っておりました。実際のお値段は…でしたが。

仁科新さんの水彩画

滝本優美個展 「いろとかたちあそび」 を見てきました

滝本優美個展 「いろとかたちあそび」 を見に、大船フラワーセンターに行ってきました。JR東海道線の大船駅からバスで5分ほど、岡本というバス停の近くの日比谷花壇大船フラワーセンターに着きました。ちなみに前回、滝本さんの個展は、昨年8月、銀座の画廊でした。

日比谷花壇大船フラワーセンターの入り口

絵を展示したり、鑑賞したりするのは、美術館やギャラリーに限る、という法律や規則があるわけではないので、別に植物園でも構わない、とは思うのですが、果たして今回の個展はどんな風な展示になっているのでしょうか?

園内に入って、右側に歩いていくと温室がありました。この温室、グリーンハウスの中が個展会場らしいのですが…。本当にやっているのかな?

個展会場のグリーンハウス

温室の中に入ると、いろいろな植物に交じって、滝本さんの個展の案内板がありました。

温室内で見つけた滝本さんの個展案内

今回の展示では、あえて作品のタイトルは表示しないことにしたのだそうです。確かに、作品名を見てしまうと、安心して、それ以上絵を良く見ない、という傾向はありますね。


作品の展示風景

面白いのは、温室の中の植物には一つ一つ、名前が表示されていることでした。植物園だから当たり前なのですが…。植物も、名前を知って安心してしまうと、それ以上は良く見ない、という傾向がありそうですね。逆に、実物の睡蓮を見ながら、モネの絵を思い出したりしました。

滝本さんの絵からは、一体、何を連想するのか? いつもはタイトルを手掛かりにして、考えたりしているので、タイトルがわからないとなると、これは作品一点、一点、出たとこ勝負ですね。

温室内の池、モネは水中の草や水面に反射した木々まで描こうとしていました

広い温室の中で、作品はゆったりと、さりげなく展示されていました。ところどころ、椅子やテーブルもあって、休憩もできるようになっています。いつの間にか、いちいち作品と勝負しても仕方がないや、という気分になってきました。

作品の展示風景

と思っていたら、こんな展示場所もありました。温室の天井から、作品が紐でぶら下げているようです。満開の桜、あるいは満開のバラの花を連想しました。上のほうの作品はちょっと見ずらいのですが、作品数の多さは圧巻です。展示の仕方もアートですね。


作品の展示風景

直射日光が表面で反射して作品が見にくいとか、日光や温度で作品が劣化してしまうのではないかとか、もともと建物が作品を展示するようにできていないとか、心配すればきりは無いかもしれません。それでも、アート作品を植物園で鑑賞するのは、美術館やギャラリーとは違う気分や、面白さが、味わえるような気がしました。

調べてみると、例えば、ニューヨーク植物園でも、しばしば現代アートの展示会が開催されているようです。ちょっとスケールが違うようなので、あまり比較にはならないかもしれませんが…。

アート作品にとっても、植物園にとっても、まだまだ新しい可能性があるのかもしれませんね。まだまだ、やらなければならないことが、沢山ありそう、という意味かもしれませんが…。

第55回神奈川県美術展に行ってきました

第55回神奈川県美術展を見に、神奈川県民ホールギャラリーに行ってきました。会場の入り口では、ピカソと岡本太郎、二人の巨匠が両手を広げて、笑顔で出迎えてくれました。

PICASSOとTARO 村上勉さん

そういえば、岡本太郎は神奈川県にゆかりがあり、川崎市生田緑地の岡本太郎美術館では、毎年TARO賞が開催されています。TARO賞展ほどではありませんが、 神奈川県美術展にも、なかなか岡本太郎の精神が感じられるような気がします。少なくとも、美しい風景画や、上品な静物画、きれいな美人画といった作品は、ほとんど選ばれていないようです。

岡本太郎美術館といえば、横山芙実さんの作品も入選していました。

楽土を望みて 横山芙実さん

以前、横山さんご本人とお話する機会があり「どうして茶色を多く使われているのですか?」とお聞きしたところ、「茶色の岩絵の具が一番安いからです」と明快なお答えをいただきました。岡本太郎というよりも、棟方志功を連想させる作風なのですが、エネルギーは岡本太郎にも棟方志功にも引けを取らないような感じがします。まだお若いのに、迷いが感じられない絵でお見事です。

単色でエネルギッシュな作品と言えば、今年も磯野悦郎さんの作品が入選していました。

311 鎮魂歌 磯野悦郎さん

今年のかわさき市民アンデパンダン展では、磯野さんにしては珍しく中途半端に色を使われていたので違和感を覚えたのですが、やはり磯野さんの作品は、黒一色のほうがインパクトが強く感じられるようです。東北の震災関連の作品が、次第に少なくなってきているようですが、天災は忘れたころにやってくる、ということわざもあるので、気をつけたいと思いました。

駅をモチーフにした作品も気になりました。JR南武線の平間駅の改札口の向かいにはコンビニエンスストアがあって、確か、店の前には椅子が3-4脚おいてあります。夜明け前の寒い朝、始発のバスを待つ間、椅子に座ってホットコーヒーを飲んだことを思い出しました。

街灯り 秋山遥夏さん
オリジナルの小田急線の改札口 藤田淳子さん

オリジナルの小田急線の改札口とのことですが、この雰囲気は本線ではなくて多摩線ではないかなと想像しました。駅の改札口には、いつも人が行きかっているのを見慣れているだけに、人が一人もいない改札口の風景、というだけで、なぜだか新鮮な感じがすることに少々驚きを感じました。

今年は、すこしゆるい感じのする作品も目につきました。モデルのお爺さんが出来上がった絵をみて、「私以外雀じゃないの」とつぶやいた様子を想像して、思わず吹き出しそうになりました。一羽一羽の雀のしぐさも豊かです。

私以外雀じゃないの 河村拓海さん
春の記憶 伊藤ちさとさん

この絵のゆるさ加減も中途半端ではありません。どこまでゆるくしても絵画として成り立つのか、挑戦しているのでしょうか? 大きな画面に、淡い色の花々がゆったり描かれています。しかも、周りを赤い枠で囲んでいて、ふんわりとした中に一応のまとまりが感じられました。

Connection 2019

なぜだか、仮装した人たちが、綱引きをしている最中のようなのです。一番左の人の足が、画面からはみ出しています。しかも勝負は、この人のつま先にかかっているようなのです。最初からはみ出すつもりで描いたのか、描いている途中からはみ出さざるを得なくなったのか、興味は尽きないところです。

今年のTARO賞を見てからというもの、段ボールの作品が妙に気になるようになりました。さて、この段ボールには元々何が入っていたのだろうか? ペットボトルの水ではなかろうか? いやいやAmazonの箱ではなかろうか? などと考えつつ見るのは邪念でしょうか?

邪念ハ無心ヲ所望スル LUNA..CLIP..さん

段ボールほどではないにしても、この作品にも材料費はあまりかかっていないようです。そういえば、神奈川県は、箱根町の寄せ木細工も有名ですね。

DREAMS -ここからきた- 西村卓さん

小さな部品を組み合わせて、ひとまとまりの巨大なシステムを作り上げるのが、現代のトレンドなのかもしれません。でもよく見ると、つぎはぎだらけ、だったりすることが、よくあるんですよね。

Walking on a Street — Julian Opie

I have been to Tokyo Opera City Art Gallery to see the special exhibition of Julian Opie.


Entrance of the Special Exhibition by Julian Opie

On the walls of the huge gallery space, there exhibited large paintings of diversity of people, male and female probably walking on a street of a large city toward left or right directions. They are illustrated using black thick lines and uniformly painted using limited colors.

Walking in New York

It is difficult to identify their age or jobs. They seem walking toward their own destinations independently and isolatedly, one by one. While they happened to share time and space only by chance, they would never meet again in the future.

Walking in Boston

It might be in New York, Boston or London. But it would be very difficult to identify the name of city only from each painting without titles.

Street

Walking in Edo by Hiroshige

Let me compare the artwork of Julian Opie with a typical old Japanese print, ukiyoe by Hiroshige, illustrating people on a street in Edo, one of the biggest cities at that time.

Morning View at Nihonbashi/ Hiroshige

People walking on a street are also illustrated by black lines and uniformly painted using limited colors. But their occupations can be clearly identified, fish sellers or servants of a lord, so it is easy to imagine what they are going to do after the scene. The location and time could be also very clearly identified without title, on a street near one of the major bridges in the early morning just before the sunrise.

I am not sure the exact definition of contemporary art. But it seems very clear that Julian Opie is illustrating people who are sharing the contemporary world freely but isolatedly only by chance.